哂う豚

あえて火中の栗を拾う

遺族の悲しみが死者を辱めるとき、死者は何を思うこともできない。だって死んでるから。

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死んだ子供の日記を世界に晒しちゃ嫌だよお父さん

「なんて気の毒な少女なんだ! こんな辱めを受けて!」
アンネの日記』を読んだ時、アンネと同じ年頃の少女だったわたしは、恥かしさに身をよじった。

もしも、わたしがアンネと同じ仕打ちをうけたら。
つまり、中2病まっさかりの乙女妄想日記を、死後、両親が出版して世界に晒したりしたら。わたしなら死ぬ。恥かしくて悶え死ぬ。いや、もうすでに死んでいるのか。あーっ! どうすればいいんだっ。

 

遺族は恐ろしい。――これが、『アンネの日記』から少女時代のわたしが得た最大の教訓だった。

もしも私が死んだら

多感な少女……というよりも、オタク趣味をひた隠して生きる少女だったわたしは思った。死んだら、とんでもない恥をかくことになるぞ。何があっても親より先に死んではならない。
でも万が一、通り魔に殺されちゃったりしたら。
遺族になる両親に、お願いしたい事が3っつある。

ひとつ。死者の持ち物を漁って勝手に世間に公開しないで。

それが親心で、どれほど素晴らしいポエムにみえたとしても。傑作マンガに見えたとしても。
てゆうか、見ないでお願い。封印したまま積荷を燃やして

ふたつ。死者の気持ちを代弁しないで。

わたしの気持ちは、わたし以外の誰にも、誰にも、誰にも決してわかりません。誰にもです。
もしもテレビレポーターがやって来て、
「娘さん、どんな気持ちだったでしょう?」
なんて、とんちんかんなことをしつこく訊ねてきても、
「さあ? わたしは本人じゃないのでわかりません」
と突っぱねてください。

みっつ。損害賠償を貰うべきはわたしです。

わたしの命の対価は、わたしに支払われるべきものです。遺族が犯人から受け取るべきは、「娘を殺された親の精神的苦痛への慰謝料」や「お葬式や遺品整理にかかった費用」などだと思います。
わたしの失われた命そのものに損害賠償金が発生した場合、それはわたしのお金です。遺族が受け取る際には、遺産相続手続きが必要になるとは思いませんか?

 

同様に、犯人からの謝罪の言葉は、わたしが受け取るべきものです。
もちろん、「娘を殺された親」の分の謝罪を要求する権利は、あなた方のものです。
しかし、「娘に謝れ」などと言って、わたしの取り分までも、勝手に要求しないで欲しいのです。
だっておかしいじゃないですか。

 

ましてや、テレビの中のひとや街角インタビューのひとが、「謝れ」なんて言おうものなら、わたしは犯人よりむしろ、被害者気取りの代弁者たちを軽蔑します。

そういえば、死んでるんだった

少女のころに考えた、もしも私が死んだら。
それは、大人になった今から思うと、まったく浅はかで無駄な悩みだった。
今なら、遺族にお願いしたい事は3っつもない。
ひとつもない。

 

だって、わたしはすでに死んでいる。妄想日記を晒されても、もう恥かしく思うことはできない。悲しくない。楽しくない。痛くない。かゆくない。何も感じない。
それが、死ぬということだ。

 

少女の頃のわたしは、死を甘く見積もりすぎていた。
死は、全ての終わりだ。
「死後」なんか存在しない。だからこそ、死は絶対的な重さを持つ。
悲しかったり腹が立ったりするのは、生きている人間だけなのだ。
そう思うと、「死者の気持ち」などという存在しないものよりも、強い痛みを抱えながら生き続けている遺された人々の感情を思い遣るのは、社会が持つべき優しさのベクトルとして正しい。

 

たとえばアンネという少女の日記は、遺族の思いが上乗せされているからこそ、世界中で読まれている。

 

たとえばお葬式は、死者のためにあるのではない。
遺された者たちが、心の整理をするために必要な儀式だ。

 

でも、こう書いている一方で、それはちょっと違うかもしれない、とも思う。
もしかしたら、死者は語るかもしれない。
遺族と死者は、会話を交わす場合もあるかもしれない。

人を人たらしめるもの

いつだったかな。発掘された猿人類の骨の脇に、花を供えた痕跡が発見された、というニュースを見た事がある。
死者に花を手向けること。死者の幸せを祈ること。――おそらくそれこそが、人と、人以外の生物の隔たりだろうって、誰かが言っていた。

 

人類の脳みそはバグを抱えている。存在しないものを、存在しないものとの会話を通じて存在させる、という奇妙なバグ。
本来、生命維持には不必要な機能だからバグだ。でも、その脳みそのバグが、原始的な宗教心を生みだし、ゼロという概念を生み出し、1+1=2というような数式を編み出し、存在しないものを通じて世界の本質を探る行為にまで昇華させた。

 

宗教心や、死後の世界を嘲笑うひとは、たぶんこの根本をわかっていない。
死後の世界を嘲笑うひとは、数学はオカルトだ、と哂っているに等しい。

 

わたしは、どちらかと言えば、そういう宗教心を嘲笑うタイプの人間だ。
「死は全ての終わり」だと、強く思っている。
人間は、ちっとも特別じゃないただの動物だと思っている。
一方で、霊的な非存在の存在を、頭のどこかで感じている。
胸のうちに、確かに「祈り」を持っている。
人間の特異性を少しは感じ取っている。
ものすごい矛盾だ。

人間の「間」とは

犬間、とは言わない。鯨間、とも言わない。人だけが、人間、と「間」という文字を、わざわざ後ろに付け加えて呼ばれる。
この、「間」って何なのか。
人と人との間に、あるいは人と世界の間に、何かが存在している。
少なくとも日本人(あるいは中国人?)の脳みそは、そう感じているから人間って漢字があるのだろうか。

 

お葬式は、やっぱり死者のためのものでもあるのかもしれない。
生きている人と、死んでいる人を繋ぐ「間」が、お葬式という儀式によって立ち現れるのかもしれない。
――うまく言えない。
この支離滅裂なぽんこつ文章、わたし以外の人に、はたして意味が通じてるんだろうか?
まあいいや。遺族についての話に戻す。

天涯孤独のホームレスが殺されたら

遺族感情は、ものすごく大事。大人になった今は、それが理解できる。
でも、死者そのものよりも大事かどうかは、考えれば考えるほど、わからなくなる。

 

たとえば裁判で、遺族感情を汲み取った重い量刑が犯人に下されることには賛成できない。
なぜなら、遺族も友達も仕事仲間もいない、天涯孤独のホームレスが殺されたら?
その殺人の罪は、遺族がいる人を殺した場合より、軽くなってしまう。
相対的に、そういうことになる。
法の下の平等は失われる。
天涯孤独の人の命は、親や兄弟や友だちのいる人の命より、軽くなってしまう。
そういうのは、哀しすぎる。

兄を亡くした妹の言葉

遺族という、ただでさえ悲痛な立場に置かれている人に対して、傷口に塩を塗るような、デリカシーの無いことばかりを書き連ねてしまった気がする。
そういう残忍なわたしでさえ、思い出すたびに何度も胸打たれる遺族の言葉がある。

事故や事件で大切な人を失った遺族を支援する会みたいなものがあって、その会が聞き取りをした、ある若い女性の言葉だ。

 

彼女は、バイクの単身事故で二十代前半の兄を失った。
ショックで何もできない母の代わりに、彼女は色々な手続きをした。
兄の、銀行口座の解約。携帯電話の解約。ひとつ解約するごとに、
「わたしが兄の存在を、この世から消して行っているような気がした」

 

お葬式では、親戚のひとたちが、彼女に言った。
「どうかお母さんを支えてあげてね」
当日は、素直な気持ちで頷いていた。
お母さんを、お兄ちゃんの代わりに守らなきゃと強く思った。
けれど、時が経つほどに、「どうかお母さんを支えてあげてね」の言葉が、胸に重くのしかかってきた。

 

「支え続けるのが辛い」
「お母さんが本当に必要なのは、お兄ちゃんだ」
「お兄ちゃんの代わりに、わたしが死ねば良かったんじゃないか」

 

――彼女は、「お兄ちゃんはたぶん、天国でこう思っている」みたいなことは、一切言わなかった。兄の死を通じて、何か普遍的なメッセージを人類に残そうともしなかった。
自分の率直な気持ちだけを話した。
だからこそ、偏屈なわたしでさえ、これほど胸打たれたのだと思う。

 

彼女の悲しみが真っ直ぐ胸に流れ込んできて、これを書いてる今も、また苦しくなって泣いている。やっぱり生きている人間の脚色の無い悲しみは、リアルだ。手の施しようが無いほどに悲しい。ただ悲しい。

とりとめもないまま、話は終わる

死を語ることは難しい。とても、とても。
ちなみにわたしは、父が死に、焼き場で焼かれて骨になった時、まだほかほかと湯気を立てているような白骨を前にして、とても清浄な気持ちになった。
「ようやく死ねたね、おめでとう。お疲れ様」
というような心持になった。
この時、わたしという遺族は、父という死者を辱めていたのだろうか。
父の死後、時々、恐ろしい感じの父のでてくる夢を見るから、何か怒らせたか? って不安が湧いたりもする。

 

遺された者が死者を辱めるとき、死者は何を思うこともできない。だって死んでるから。それでも遺された者は、死者の声に耳を済ませる。

 

ここまで長い文章を書いておきながら、矛盾と無礼と思い込みとでたらめ以外の何事も語れなかった。なんてこった!
そしてとりとめもないまま、話は終わる。