鼻血ならわたしも出たけどね。
鼻血なら、出た。出たのは2011年3月15日だった。ただし、わたしが住んでいるのは東京だけどね。なぜ覚えているのかというと、それが生まれて初めて出た鼻血という、個人的な記念日だったから。
ちなみにこの日、2011年3月15日は、福島での原発事故由来の放射性物質が東京上空に飛来し、空気中の放射線量が急激に上昇していたという観測データがあるけれど、当時のわたしは知らなかった。
同2011年の冬。夫が会社の健康診断で、毎年毎年ずっと続いていたA診断ばかりの超健康優良記録をストップさせた。B判定がひとつ、ついたのだ。理由は「白血球量の減少」だった。
さらに数ヵ月後。福島在住の義兄が、激しすぎる頭痛と高熱に襲われて緊急入院した。診断結果は、原因物質不明の髄膜炎だった。何らかの理由で免疫力が低下していたため、感染したのだろうって診断だった。
3つの事実は何を示している?
これらの事実が示しているのは、ある一年ほどの期間中に、わたしは人生初の鼻血を体験し、夫は人生初の白血球量減少を経験し、義兄は人生初の髄膜炎になった。という事実そのものだけだ。
それ以上でも以下でもない。共通点はない。因果関係はおろか、相関関係も見つけられるとは思っていない。
にも関わらず、わたしの脳みそは、この3つの出来事をうっすらと同テーマのカテゴリーに、いちど分類しちゃったみたいなのだ。気がつけば「福島の原発事故」というタグが貼ってあったよ、いつの間に、って感じ。
なぜ? わたしは「放射脳」なのか?
ちょっと想像してみて欲しい。
ある夜、あなたは帰宅途中の道で、ふいに見知らぬ男から肩を叩かれて足を止める。
「あんた今、あそこの交差点を通ったでしょう。あそこで先日、ちょっと言葉にできないような忌まわしい事故が起きたんだ。小さな女の子でね。それ以来、あの交差点を、黙祷せずに通った人は、女の子の呪いを受けるってうわさを聞いたよ。ま、うわさだけどね。一応、伝えとくよ。良くないことが続くようなら、お払いを受けなさい」
言うだけ言うと、男はさっさと宵闇に紛れ込んでしまう。
あなたは「面白くない話を聞いたな」と思いながらも、再び歩きだす。自動販売機の明かりが灯る角を曲がり、駐車場を通り過ぎ、自宅アパートの外階段を二階まで上がる。と、突如、階段の灯りがふつりと消える。
予想外に訪れた嫌な闇。あなたは足を踏み外さぬよう気をつけながら、階段を上りきる。自宅の扉に鍵を差し込もうとした、その時。
「遊ぼう」
ふいに無邪気な声が耳に届く。
ぎょっとして振り向くが、誰もいない。不安になりながら扉を開けると、奥で電話が鳴り出す。慌てて靴を脱ぎ、部屋に入って受話器を持ち上げる。
「もしもし? 大変よ。落ち着いて聴いてね」
電話は、知人の死を告げる一報だった。知人はロリコン系のマンガを愛好していた男だった。
何のつながりもない3つの出来事
消えた階段の灯り。耳に届いた無邪気な「遊ぼう」の声。知人の訃報。これら3つの事実には、共通点はない。因果関係はおろか、相関関係もなさそう。
外階段の灯りは老朽化していて、たまたまあなたが通った時に、寿命が尽きたのかもしれない。違うかもしれない。調べてみなければわからない。
聴こえた「遊ぼう」の声は、隣家の部屋から漏れた音かもしれない。他の可能性もある。調べてみなければわからない。
もちろん、知人の死因は、当然あなたとは無関係だ。
けれど、この夜、あなたは男から告げられた交差点事故のうわさを、まったく、これっぽっちも思い出さずにいられるだろうか?
信じるか、信じないかという理性や心情の問題ではなくて。
あなたの脳みその記憶をつかさどる機能は、交差点事故のうわさに、まったくこれっぽちもリンクを貼っていないだろうか?
ひとは偶然にも意味を求める
ひとの脳みそは、因果関係を探るのが好きだ。時には、まったく関係のない物事にも、何かしらの関連性を探しちゃって、関連付けて意味づけしていくようなところがある。
どうしようもなく、そういう風にできている。
脳みそが勝手につけた因果関係リンクを、「いやいや、それは関連がない」と外す作業って、すごく困難な場合もある。トラウマを抱えるひとのフラッシュバックなんて、まさに脳みそが勝手に張ってしまった関連リンクに苦しめられている状態なんじゃないのかな。
さっきの交差点事故の話だけど
ああいう夜を体験したのが、もしもアナタじゃなくて、他の誰かだったとしたら。
「馬鹿馬鹿しいとは思うけど、一応、念のために、お払いを受けてみることにしたよ。要は気持ちの問題さ。安心感を得たいだけなんだ。僕にも娘がいるからね。万万が一にも娘に何かあったら嫌だと思ってしまうんだ。親心だよ」
その人が、そう思っていたとしたら、あなたはどう感じる?
「ああ、おまえは大馬鹿だ。人間の屑だ。おまえのようなヤツがいるから、霊感商法が後を絶たない。おまえの馬鹿さ加減はもはや害悪だから、人前で口を開くな。おまえがしゃべると、風評被害を拡大させていく」
って、ののしる?
「馬鹿馬鹿しいとは思うけど、一応、念のために、福島産の野菜は避けることにしたよ。要は気持ちの問題さ。安心感を得たいだけなんだ。僕にも娘がいるからね。万万が一にも娘に何かあったら嫌だと思ってしまうんだ。親心だよ」
こう思うひとを、「放射脳」だとあざ笑うべき?
もしかして、啓蒙すべき?
科学的根拠に基づいた説明を受けたら、不安感が安心感に変わるかな?
たしか、原発周辺の住民は、「絶対安全です」と電気会社から科学的根拠をもとにしたかのような説明を受けていたような……??
今や「安全です」「問題ない」という言葉ほど、不信感をもたれる言葉はなさそう。
「福島は低線量だから問題ない」と言い募れば募るほど、
「わざわざそう言うからには危険なんだな」って脳内変換しちゃうひとは、きっと現れる。
どうやって、彼らの脳内から、いちど貼られたタグを取り除けばいいの?
「ありもしない我が子に起こる災難よりも、今現在、実際に風評被害に遭っている福島のひとたちへの思いやりを優先させようよ」
って言えば、不安感よりも同情心が上回るの?
むずかしいなって思うんだよ
近頃、物議をかもしている『美味しんぼ』の鼻血をめぐる騒動。作者の雁屋氏がどうこうよりも、わたしはこんなことを考えちゃった。
雁屋氏がとんでもない心情を、あたかも事実かのように描いたのが問題だとしても、それにより風評被害が増すなんて、わたしは信じない。
だって、雁屋氏が描いていることなんて、すでに「放射脳」の人々にとっては耳慣れた情報の再確認にすぎないもの。
むしろ雁屋氏を糾弾する声の大きさこそが、心配だ。
雁屋氏は心情を公にした。
一方で、胸の思いを誰にも告げず、静かに「放射脳」を抱えているひとは、この国のあちこちにいると思う。
そういう人々にとって、雁屋氏に投げつけられる否定の言葉は、自分自身に向けられた否定の言葉として脳裏に響くかもしれない。そして、一般論として、ひとは否定されればされるほど、頑なになる場合が多いんだ。
彼らは責められるのを恐れて一生沈黙を守るかもしれない。
けれど、黙って不安を増長させる。
いったい、何をどうすれば原発を巡る不安問題は解決するのかな?