哂う豚

あえて火中の栗を拾う

お金は弱者のコミュニケーションツール――わたしがブログを始めた理由3

 

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お金よりも愛や友情が大事。お金よりも健康がいちばん。

そんな言い方をよく耳にする。

どうしてそんなあたりまえのことを、わざわざ大きな声で言わなければならないのだろう。とても不思議だ。

 

愛や友情や健康に恵まれているひとなら、お金なんかなくたって、どうにかなるに決まってるじゃないか!

 

家族も友だちもいなくて、病気まで患っているひとが、どのようにして外の世界と関わりを持つのか。そんな時、お金は最低限のコミュニケーションツールとしての価値を持つ

絶対的な弱者には、お金しか

外界とコミュニケーションを計る術がない時もあるんだよ。

今回は、そういうお話です。

 

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わたしがブログを始めた理由3

読まなくてもわかるけど前回までのお話し

海馬が脳から逃げてゆく――わたしがブログを始めた理由1 - 哂う豚

廃人から俳人へのメタモルフォーゼ――わたしがブログを始めた理由2 - 哂う豚

 

エレカシの、「デーデ」って曲、知ってる? 引用って、著作権てきにマズイのかな?

うーん。「著作権法32条1項」に当たると信じて、歌詞を一部引用しちゃおう。

悲しい事あっても 1人きりになっても

金があるじゃないか 金があればいい

もしも君に友達が 1人もいないなら

ふぬけたド頭 フル回転

金が友達さ

 この歌は、エレカシの宮本さん的には、痛烈な拝金主義批判として歌ったのかもしれない。

けれど、わたしの知人は、

「学生時代にこの曲を聴いて、心が救われた。神だと思った」

って言っていた。

その時は、へえ、そうなのか。子供の頃、友だちいなかったんだね。って軽く思っただけだった。けれど、これはすごく重大なことだったんだなと、最近になってから感じてる。

 

ぼっちを救うのはお金

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人は、人を色眼鏡で見る。「あのひとは、信用できそう」とか、「あいつは気持ち悪い」とか、「あのひとは、あそこの出身だから」とか、そういう判断で、付き合い方を決める。

けど、そこにお金というワンクッションを置くと、ちょっと事情が違ってくる。

「あのひとの100円は、信用できそう」とか、「あいつの100円は気持ち悪い」という理由で、たとえばお店の人が、お客さんを選り好みするってこと、ほとんどないでしょう。

 

 

3歳の女の子が支払う100円。

大企業の社長が支払う100円。

リア充イケメンが支払う100円。

暗い引きこもり開けの青年が支払う100円。

 

 

違う処理をされることはない。

3歳の女の子も、社長も、支払いをしているその瞬間、等価値になる

お金には、色が無い。

その無色が、お金を使うひとにも反映されて、所属先や先天的個性や後天的個性が、ぜんぶ消える。チャラになる。

個性を排して、平等に、社会とコミュニケーションが取れる。

ここに、ある種、弱者への救いがある。

 

 

エイズになったアフリカの少年の話

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ある少年の話をしようと思う。

それは、かなり以前に観たテレビのドキュメンタリーで、細部はもう、うろ覚えだから想像で補完しちゃうよ。

 

 

その少年は、アフリカの、ある国の、小さな村に住んでいた。

村というよりも、森の中という感じで、少年の家の周囲には、建物なんてまったくなかった。水道も、電気も通っていなかった。けれど、大家族で楽しく、両親と、たくさんの兄弟が森の家で暮らしていた。

少年は、そこから歩いて数時間かかる町に、仕事に通っていた。

職場は、質素な野営病院みたいなところで、エイズ患者がひしめいていた。

エイズ患者の世話をしていた少年は、ある日、なぜか、本当になぜか、自分自身もエイズになってしまった。

 

 

どうして感染したのか、誰にもわからない。

少なくとも、医者も、テレビの取材班も「わからない」とするばかりで、理由を深追いすることはなかった。

わたしはそこに、勝手に不穏な想像をめぐらしてしまったのだけど、そういう想像は誰のためにもならないことだから、やっぱり「わからない」だけで話を進めるよ。

 

 

少年は発病し、働けなくなった。元気な日もあるけれど、時々発熱したり、だるくて寝そべっているだけの日もあった。そんな少年を、森の家で暮らす家族は、のけ者にして、穢れを払うかのように、遠ざけた。

 

 

たぶん、家族はエイズに関する知識が乏しくて、土着的な宗教観とか、彼らなりの色々な理由があったのだと思う。家族は、少年を家から追い出した。離れにある、高床式の東屋みたいな、屋根と柱だけの粗末な「ねぐら」をあてがった。

家族は、少年の「ねぐら」に寄り付かない。声もかけない。そうして、少年がさっさと死ぬのを待っているみたいだ。でも、さすがに餓死させたりはしない。ご飯時になると、兄弟のうちのひとりが、少年にご飯を持っていく。まるで「エサ」をあてがうみたいに。

もちろん、「エサ」を与える時も、兄弟は無言で、ニコリともしない。

 

 

「寂しくないの?」

レポーターの日本人女性が少年に問う。

「寂しいときもあるけど、仕方ないよ」

そう答える少年は、老齢の哲学者みたいな瞳の色をしている。

その瞳で、庭で明るい笑い声を立てて遊んでいる兄弟達を、じっと見つめている。

 

 

楽しい月曜日

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その日、少年はとても子供らしい浮き立った表情を浮かべていた。

「月曜日は、町にろうそくを買いに行くんだ」

「ろうそくを、何に使うの?」

「家族に売るんだよ」

「ろうそくを買うお金は?」

「家族にろうそくを売ったお金でろうそくを買うんだよ」

 

 

それは、少年と家族の取り決めだったのだ。

少年は、毎週月曜日に町で200本入りのろうそくを買う。家族は、家で使うろうそくが切れると、少年からその日に使う分のろうそくを買う。

お母さんが3本、弟が1本、という感じで、ろうそくと引き換えに、硬貨を少年に手渡す。

少年と、家族の手が、硬貨を交わす一瞬だけ触れ合う。

少年は、少しはにかんだ笑みを浮べる。自然にこぼれてしまう笑みだとわかる。

 

 

こういうコミュニケーションが存在するのかと、わたしは少し胸を打たれた。

家族はもう、少年を「家族」だとは見なしていない。

親でも子でもない。兄弟でもない。赤の他人の「ろうそく売り」だ。

そういうエクスキュースで「忌まわしい存在」を許容する。

ささやかな接点を持ち続ける。

それは、最後に残った「家族の熾き火」のような温もりなんだろう。

 

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ところで、少年の暮らす高床式の東屋みたいな「ねぐら」は、とても素敵だった。

雨風を防げない「ねぐら」で、ケット1枚で床に寝るのは、病身の少年には過酷かもしれない。それでもなお、とても素敵とわたしは思った。

 

 

子供の頃、憧れていた。遮る壁のない部屋で、夜風に吹かれながら眠る夜。

今でも憧れている。五感を総動員で想像できる。

冷たい風が森の木々を揺らす音。姿がわからない虫の声。青い夜に輝く星明り。

それは、わたしにとって間違いなく、ひとつの幸せの形だった。

少年も、わたしも、一匹の動物として、この地球(ほし)に今、息づいている。そしてただ、死んでいく。それはとても美しいことだと思った。

 

 

番組を見ている間、わたしは一度も少年を可哀想だとは思わなかった。

いや、一度だけ哀れみを感じた。

「将来の夢は?」

と、レポーター女性が訊いた時。

少年は少し考えてから、こう答えた。

パイロットになって、外国に行ってみたい」

ああ、少年。それは幼い日のわたしの夢だ。君はわたしだ。

 

 

「神様を信じてる」

少年は、そうも言った。

少年は、今ではもう死んでるだろう。あれから何年も時が過ぎたもの。

夢は叶わない。神様はどこにいるのかわからない。でも、命って美しいなと思う。

 

 

――すっかり話がそれちゃった。いや、そもそもの初めからそれまくってる。

このエントリーは「わたしがブログを始めた理由」です!

結論もなく、誰のためにもならない謎のエントリー、なんとまだ続けます。

 

次回もお金とコミュニケーションのお話しだよ。

後記 ↑たぶん、続かないと思うなあー。